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第1章「金印の世界」
第2章 「福岡のあけぼの」
第3章 「奴国の時代」
第4章 「鴻臚館の時代」
第5章 「博多綱首の時代」
第6章 「博多豪商の時代」
第7章 「福岡藩の時代」
第8章「近代都市・福岡の時代」
第9章 「現代の福岡」
第10章 「福博人生」
エピローグ
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第1章「金印の世界」

2.金印

金印・・・歴史の教科書に必ず出てくる、国宝です。江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で、地元の農民が作業中に偶然発見しました。四角い部分はおよそ2.3センチ四方、重さは109グラムほど。つまみはとぐろを巻いた蛇の形をしています。 金印に刻まれている5つの文字は、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」。ここから、漢の皇帝が奴国の王に与えた印であると分かります。中国の歴史書「後漢書(ごかんじょ)」には、建武中元2年、すなわち西暦57年に、光武帝(こうぶてい)が倭奴国(わのなこく)から来た使者に「印綬(いんじゅ)」を与えたことが記されています。志賀島で発見された金印は、おそらくそのときの「印綬」。中国王朝が奴国の王を認めた証しといえるのです。 はるか2000年前、ここ福岡の地で繁栄を極めた奴国は、弥生時代の日本列島を代表する王国でした。

3.金印の使用例

印というと、朱肉で紙に押すハンコを思い浮かべる方が多いかもしれません。金印はそれとは違い、粘土に押すためのスタンプ印です。 文書行政が発達した古代中国の漢では、機密保持と発信者を明確にするために公文書を封印していました。実際にどうしていたかというと、まず竹簡や木簡といった、竹や木の札に記した文書を箱などに入れ、そこに紐をかけます。そして紐の結び目に板と粘土で封をし、そこに印を押していました。これを「封泥(ふうでい)」と呼びます。金印の文字の部分が掘りこまれているのは、粘土に押した文字を浮かび上がらせるためなのです。

4.『金印弁』

天明4年、1784年に金印が発見された当初、それが何であるかは分かりませんでした。溶かして武具の飾りにしてしまおうという意見もあったほどです。そこに一つの答えを導き出したのが、この「金印弁(きんいんべん)」という書物を記した亀井南冥(かめいなんめい)。福岡藩の儒学者で、藩の学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長を務めていました。南冥が、金印を、中国の歴史書「後漢書」にでてくる、光武帝が奴国の王に与えた印綬と一致すると、初めて説いたのです。 この本は南冥の学説をまとめたもので、金印発見の場所を示した志賀島の絵図や、金印に朱肉を付けて紙に押した印影が付録で付けられています。南冥が金印を後漢の時代のものであると強く説いたため、人々はその重要性を知ることとなりました。そして金印は、福岡藩主の黒田家に保存されることになり、今日に伝わったのです。
第2章 「福岡のあけぼの」

5.【コーナー解説】(2.福岡のあけぼの)

福岡の地に人が暮らし始めたのは、およそ3万年前の旧石器時代のことです。寒冷な気候で、人々はナウマンゾウなどの獲物を追い、移動して暮らしていました。遺跡からは当時の狩人たちが槍の先端や刃物などに使用していた石器がみつかっています。 1万5千年前頃になると、温暖化が始まって環境が変わります。人々は土器や弓を使い、竪穴式住居に暮らすようになりました。縄文時代の始まりです。縄文土器はドングリのあく抜きや食べ物を煮炊きするための容器でした。その形や文様は、地域や時代によって違いがあります。 さて、古くから東アジアに開かれた窓口であった福岡。その大陸との交流は、金印の時代よりもはるかに遡り、旧石器時代や縄文時代からはじまっていました。その交流を物語る出土品をご紹介してまいりましょう。

7.剥片尖頭器

こちらは、九州一円で見つかっている、剥片尖頭器(はくへんせんとうき)と呼ばれる石器。黒曜石や安山岩などの塊りから縦長のかけらをはぎとって、槍先の形に加工しました。大型の獣を狩る槍に使われたようです。 これと同じ形の石器が朝鮮半島でもみつかっています。最も寒い時期だったおよそ2万年前、海面が下がり、狭くなった対馬海峡を越えて伝わったのでしょう。旧石器時代にはじまる大陸との交流を物語っています。

8.貝面

貝殻に開いた穴が、人の顔のように見えますね。こちらは「貝面」。まさに、貝殻を加工して作ったお面です。縄文時代の福岡や熊本の貝塚からみつかっています。 朝鮮半島・釜山市の貝塚からは、これと同じような貝面のほか、九州からもたらされた縄文土器や黒曜石の石器なども出土しています。縄文時代、温暖化で海水面が上がり、海岸線も現在に近づいていました。しかし、九州と朝鮮半島では魚などを採る道具にも共通性があり、縄文時代の海を通じた文化的な交流がうかがえます。
第3章 「奴国の時代」

9.【コーナー解説】(3.奴国の時代)

中国の皇帝に使者を送り、金印を授かった奴国。この国が存在したのは、弥生時代にあたります。 2500年以上前、北部九州の玄界灘沿岸に、朝鮮半島から水田稲作が伝わりました。いち早く稲作文化を受け容れた福岡では、農耕集落が築かれ、弥生時代が始まります。さらに、福岡は青銅器や鉄の文化といった大陸文化を受け容れる窓口にもなりました。やがて、人々は村をまとめて国をつくり、東アジア社会との外交が本格的にはじまったのです。 この福岡の地にあった奴国は、そうした社会的変化が先んじて進んだ国でした。わが国における農業、工業、外交のはじまりを、奴国の歴史にみることができます。

10.板付遺跡(模型)

ここに再現されているのは、博多区にある板付(いたづけ)遺跡。日本最古の農耕集落の一つです。標高11メートルほどの台地の上に集落を築き、周囲の低い土地に用水路や堰を伴う水田を営んでいました。南北およそ110メートル、東西80メートルの範囲を深い壕で囲んだ集落で、環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれています。周りには墓地もあるのがご覧頂けるでしょうか。 技術的に完成された水田と農耕集落からなる板付遺跡は、日本の原風景である農村のルーツ。そして弥生時代のはじまりを象徴する遺跡です。この地で完成された稲作農耕文化が、日本列島の各地へとひろがっていきます。

11.吉武高木遺跡(模型・出土副葬品)

博多湾沿岸の中央に位置する早良平野に、吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)があります。そこで、青銅器といった様々な副葬品をもつお墓がみつかりました。時代は紀元前3世紀頃。日本列島で青銅器などの金属が本格的に使用されはじめる、弥生時代中期です。朝鮮半島から青銅製の武器や鏡などが伝わり、北部九州でも生産がはじまりました。 同じようなお墓でも、副葬品の少ない博多区の金隈(かねのくま)遺跡は、おそらく村に住む人々の共同墓地でしょう。一方で、吉武高木遺跡には様々な貴重品と一緒に埋葬されたお墓が集中しており、小さな国を指導した有力者たちの墓と考えられています。中でも3号木棺墓から見つかったのは、鏡と三種類の武器、翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)に、碧玉(へきぎょく)の管玉(くだたま)の首飾りなど、当時としてはおそらく最高級の副葬品のセット。そのため「最古の王墓」と呼ばれています。

12.鋳型(伝八田)

朝鮮半島から青銅器が北部九州に伝わり、その生産もはじまりました。青銅器は、製品の形を石などに彫り込んだ鋳型を用意し、そこに高温で溶けた銅の合金を流し込んで作ります。そのような鋳型が多くみつかっているのが、奴国です。北部九州を代表する青銅器の生産地があり、弥生時代のテクノポリスと呼ばれています。 福岡市東区八田(はった)で、土地の造成工事中に発見されたといわれる石の鋳型が5点伝わっています。多くは戈(か)と呼ばれる武器の鋳型ですが、剣や矛の鋳型もあります。武器の形をした青銅器が、実戦的なものから徐々にお祭りや儀式の道具へと変わる段階のものです。鋭い刃をもたず、大型化していきました。

13.甕棺

弥生時代、北部九州の一部地域では、甕棺墓(かめかんぼ)という埋葬が行われていました。大きな土器を棺とする方法です。奴国でも、この甕棺墓が流行していました。 深く掘った墓穴に甕棺を据えますが、木や石で蓋をしたものや、甕棺2つの口を合わせてつなげたものなど様々な方法がありました。埋葬する人の年齢や体格に応じて大きさを使い分けたほか、身分の高い人がより大きな甕棺に埋葬される傾向もあります。 甕棺には絵が描かれたものもみつかっています。吉武高木遺跡の甕棺には鹿が2頭刻まれており、弥生時代の絵画としては最も古いものです。鹿は農耕に関わる神話がモチーフと考えられています。
第4章 「鴻臚館の時代」

14.【コーナー解説】(4.鴻臚館の時代)

4世紀、中国大陸や朝鮮半島では、国の分裂と争いが続く時代を迎えます。その頃の日本列島はちょうど古墳時代。大陸の情勢に強く影響を受けつつ、国家が形作られていきました。 海を越えた人や文化の往来には、その時代の国際情勢が顕著に現れます。大陸に近い博多湾沿岸は、まさに、外交・軍事・交易の最前線でもありました。そして、律令国家へとむかう7世紀後半には、大宰府の整備がはじまります。九州と周辺の島々を西海道と呼びましたが、大宰府はその一帯を治める役所のことです。このとき外交の第一線を担う拠点として、のちに鴻臚館(こうろかん)と呼ばれる筑紫館(つくしのむろつみ)が築かれました。

15.那津官家

6世紀、倭、つまりヤマトの軍勢が、朝鮮半島を伺って西にやってきます。北部九州一帯で大きな力を持っていた豪族・磐井(いわい)は、それを遮り、倭の軍と戦うも、破れました。これが筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱です。その後、倭の政権は支配を強めるため、那津(なのつ)と呼ばれた博多湾沿岸に、直轄地である官家(みやけ)を設置します。一方、朝鮮半島では同じ頃、高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)が対立して緊張感が高まっていました。那津は軍事上の最前線の役割も担っていたのです。 那津官家には倉庫が立ち並ぶ区域があり、物資が集められました。博多区の比恵(ひえ)遺跡群や、早良区の有田(ありた)遺跡群では、そうした倉庫らしき建物の痕が見つかっています。また、博多区那珂(なか)遺跡群では、7世紀前半の大規模な建物や施設のほか、ご覧のような、九州で最も古い瓦が見つかりました。おそらく、大宰府の起源はこの地にあったのでしょう。

16.鋤崎古墳(石室模型、出土品)

鋤崎古墳(すきざきこふん)は、西暦400年前後に造られた、全長62メートルの前方後円墳です。福岡市西区、今宿平野に位置し、当時、その一帯を治めた豪族が後円部の石室に埋葬されました。盗掘を免れた石室内には、鏡や勾玉、管玉、鉄の武具、農具などが大量にみつかっています。副葬品の組み合わせから、最初に埋葬された人物は女性の首長だったようです。 この石室内には3つの棺がありますが、横から出入りできる門があり、埋葬のたびに開け閉めされました。このような石室を横穴式石室と呼びます。日本ではその起源となる石室が、まず、唐津から福岡の玄界灘沿岸に現れ、ほどなく最初の横穴式石室をもつ鋤崎古墳がつくられました。そのルーツは、朝鮮半島の横穴式石室とみられます。日本はもとより、朝鮮半島ですら、まだ竪穴式石室が多い時代に、先進的な文化をいち早くとりいれていたのです。古墳時代、九州と大陸の独自の交流が続いていたことが伺えます。

17.鴻臚館出土品(筑紫館、外交の時代)

九州を治める役所・大宰府と、その外交の拠点・筑紫館(つくしのむろつみ)、のちの鴻臚館(こうろかん)は、7世紀後半からつくられはじめました。そして奈良時代の8世紀になって、瓦葺きの建物が並ぶ厳かな施設に生まれ変わります。この時、大宰府政庁や筑紫館に葺かれた瓦は、鴻臚館式とも呼ばれますが、平城京の瓦をモデルに作られました。一方、鬼瓦は平城京のものとは大きく異なり、大宰府独自のデザインでした。 筑紫館には、この時代では珍しいトイレも設けられました。深さ4mほどの穴で、専用の瓦葺きの建物に覆われていたようです。穴からみつかった大量の細長い木片は、籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる古代のトイレットペーパーでした。  奈良時代の筑紫館は、唐や新羅の使節が出入国する際、一時滞在する施設でした。また、わが国が派遣した遣唐使や遣新羅使などもここから船出していったのです。

18.鴻臚館出土品(鴻臚館、外交から交易の時代へ)

平安時代の9世紀頃になると、外交の拠点である筑紫館は、鴻臚館と呼ばれるようになります。この時代には外交使節が途絶え、代わって、新羅や唐などの商人が多く来航するようになりました。商人たちもまずは鴻臚館に入り、朝廷の許可を待って交易を行なったのです。鴻臚館は外交の場から、外国商人が滞在し、交易をおこなう場へと変化しました。 鴻臚館跡に残された、越州窯青磁(えっしゅうようせいじ)をはじめとする中国の陶磁器は、商人たちが携えてきたものでしょう。他にも、イスラム系陶器やペルシャ系ガラス容器といった西アジアの文物も見つかっています。当時の中国には、海のシルクロードと呼ばれる海路を通じて、西アジアからの品々が集まっていました。鴻臚館には、おそらく唐や新羅を経由してもたらされたのでしょう。
第5章 「博多綱首の時代」

19.【コーナー解説】(5.博多網首の時代)

さあ、ここからは、1000年前から700年ほど前、博多で盛んになった、外国との交流の歴史を紹介してまいりましょう。 鴻臚館での対外貿易が幕を閉じたのは、平安時代の中頃、11世紀の半ばのことです。そして、外国との交流の舞台は博多に移りました。古代の博多に終わりを告げ、新たに中世博多の歴史が始まります。貿易の担い手は、「綱首(こうしゅ)」と呼ばれる、博多に住む中国人の商人たち。「綱」は船団などの組織、「首」はリーダーを意味します。彼らは博多に日本で最初のチャイナタウン「唐房(とうぼう)」を作りました。日本人と結婚し、神社や寺院に属してその保護を得た網首たちは、中国と博多の間を行き来して、ものだけでなく、様々な文化の交流を担ったのです。

20.墨書陶磁器

 博多で発掘調査を行うと、中国から輸入された陶磁器が膨大な量で出土します。中には、お椀や皿の裏側、高台部分に、王・丁・李といった様々な中国人の名前が墨書きされているものがあります。これは貿易船の積荷の所有者を表示したもので、他の地域ではほとんど見られない、博多特有の遺物です。 この他、博多では、輸入された陶磁器が一括して捨てられた遺構や、輸入品を詰め込むコンテナとして利用された大型の容器が見つかっています。これらはまさに、博多が外国の文物を輸入する窓口だったことの証。国際貿易と国内流通を結ぶ拠点であったことを示しているのです。

21.誓願寺盂蘭盆一品経縁起

古来、博多湾は、外国との交渉や異国の文化がもたらされる窓口でした。湾内には博多や箱崎など、外国の船が往来する港がいくつか点在し、その一つが、西側に位置する今津です。 今からおよそ800年前、今津で一人の僧侶が、密教の書物の執筆や、経典の研究に精を出していました。後に臨済宗の祖と仰がれる、栄西(ようさい)です。日本に禅とお茶を飲む喫茶文化を広めたことでも知られます。 1168年、栄西は初めて中国・南宋に渡った後、1173年から約14年間にわたり博多湾周辺で活動しました。特に1176年から1178年までは、今津の誓願寺にて、中国から経典がもたらされるのを待っていたのです。このとき寺で、盂蘭盆会(うらぼんえ)という儀式に際し、法華経二十八品(ほけきょうにじゅうはちほん)を1品(いっぽん)ずつ分担して写す、一品経(いっぽんぎょう)の書写が行われました。その功徳(くどく)を讃え、栄西が記したのが、『誓願寺盂蘭盆一品経縁起(せいがんじうらぼんいっぽんぎょうえんぎ)』。国宝に指定されている直筆の書です。

22.少弐経資書下

アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築いたモンゴルの大軍が、日本に攻め寄せてきた蒙古襲来。 1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、二度にわたり博多湾に押し寄せました。文永の役では、モンゴル軍の集団戦法や火薬を用いた鉄炮など、新兵器に日本軍は苦戦を強いられます。 そこで鎌倉幕府は、次の襲来に備えて二つの作戦を立てました。一つは実現しませんでしたが、モンゴル軍の出撃基地となった高麗を攻めること。もう一つは、敵の上陸を拒むため、博多湾沿岸に元寇防塁という石の壁を築くことでした。 展示されている文書、『少弐経資書下(しょうにつねすけかきくだし)』は、朝鮮半島に出陣する武士を除き、国中の御家人にその建設を命じたものです。わずか半年で、およそ20キロメートルの防塁が築かれました。 その甲斐あって、2度目の弘安の役では、モンゴル軍の上陸を阻止することに成功します。『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』には、肥後国(ひごのくに)の御家人たちが築いた生の松原の元寇防塁が描かれています。

23.高辻長衡書状

京都の公家・高辻長衡(たかつじながひら)が、太宰府天満宮の小鳥居法眼(ことりいほうげん)に宛てたお礼状です。ここで長衡は、小鳥居法眼の仲介で、中国から輸入された上等な天目茶碗を入手できた喜びを述べています。さらに、「其境唐物流布(そのさかい、からものるふ)の由伝説候(よし、でんせつそうろう)」つまり、「博多には唐物があふれている」と伝え聞いているので、また、新たによい品があれば手に入れて欲しいと、催促もしています。 当時、京の都では、茶碗をはじめ、中国からもたらされた高価で珍しい品々がもてはやされていました。そして、手紙の「唐物流布(からものるふ)」というフレーズの通り、博多周辺はそうした中国からのブランド品が巷(ちまた)にあふれていたのです。博多は、異国の文化を受け入れる窓口、国際貿易都市として栄えました。
第6章 「博多豪商の時代」

24.【コーナー解説】(6.博多豪商の時代)

このコーナーでご紹介するのは、700年から400年ほど前、14世紀から16世紀の博多の歴史。前の時代と同様に、博多は外国と日本を結ぶ重要な接点、様々な文化の窓口として栄えました。 鎌倉時代半ばの蒙古襲来を経て、博多における交易の担い手は、中国人商人、博多綱首から、日本人へと移り変わります。たとえば、明との貿易を始めた室町幕府3代将軍、足利義満が最初に派遣した使者の一人は、博多商人の肥富(こいづみ)という人物でした。日明貿易や朝鮮との交易では、奥堂氏、澳浜氏、綱庭氏、神屋氏といった博多商人が手腕をふるいます。そうした豪商たちは、琉球と朝鮮の間を行き来するなど、東シナ海を舞台に活躍しました。

25.雪谷宗戒虎丘十詠跋

『雪谷宗戒虎丘十詠跋(せっこくそうかいくきゅうじゅうえいばつ)」。博多・妙楽寺(みょうらくじ)ゆかりの禅僧の、宿願によって中国からもたらされた墨蹟(ぼくせき)です。当時、妙楽寺は「遣唐使の駅」と評され、外交の使節の宿舎となることもあり、室町幕府の外交の出先機関としての役割をはたしました。 「虎丘十詠(くきゅうじゅうえい)」とは中国・南宋時代の禅僧、虚堂智愚(きどうちぐ)が蘇州(そしゅう)にある虎丘山(くきゅうさん)について詠んだ七言詩です。これに13編の後書きが付けられましたが、現在は分割され各地に伝わります。ご覧の墨跡はその最後に書かれたもので、福岡藩の筆頭家老である三奈木(みなぎ)黒田家に伝来しました。時空を超え、中国から日本にもたらされた経緯が記されています。 虚堂智愚の末流に連なる妙楽寺7世の恒中宗立(こうちゅうそうりゅう)、8世の石隠宗璵は、中国で入手したこの虚堂智愚の詩文を持ち帰ろうとしましたが、高齢のため叶いませんでした。そこで、日本の留学僧に託して妙楽寺へ届けられることを祈ったのです。それから100年程さらに中国国内を流転した後、雲南にいた雪谷宗戒(せっこくそうかい)の手配により、ようやく妙楽寺に届けられました。こちらは、日本と中国の文化交流を示す貴重な文物です。

26.『海東諸国紀』

『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』は、朝鮮王朝の宰相・申叔舟(しんしゅくしゅう)が記した書物です。海東とは朝鮮からみた海の東、つまり日本の九州・本州・壱岐・対馬および琉球のこと。それぞれの地域にまつわる情報と、朝鮮との通交の歴史が記されています。 当時の日本は、全国を二分した戦い、応仁・文明の乱の真っただ中で、少弐(しょうに)氏が筑前、現在の福岡県北西部の支配を大内氏から奪回した時期にあたります。この書によると、戦国時代初期の博多は海側を大友氏が、陸側を少弐氏が分割して治め、1万あまりの住居がありました。博多は、「居住する人々は行商を生業とし、琉球や東南アジアの貿易船が集まる所」であり、「朝鮮に往来する者は九州の中で博多が最も多い」と記されています。

27.ルドヴィコ・ジョルジオ作「中国図」

15世紀、ポルトガルとイスパニア、つまりスペインは、競って航海に乗り出し、16世紀の初めにはアジアに到達します。この「大航海時代」を背景に、ヨーロッパでは盛んに世界地図が作られました。 この地図は、1584年に制作されたもので、中国を中心とする東アジアが描かれています。中国大陸の東側、画面の手前に見えるのが、琉球や日本。日本は九州・四国・本州が表され、九州の北部に博多が「Facata」、ファカタと記されています。16世紀の博多は、カトリックの教会が建てられ、宣教師が布教を行い、南蛮貿易の拠点ともなっていました。日本の国内の重要な都市の一つとしてヨーロッパに認識されていたのです。

28.バテレン追放令(豊臣秀吉定書案)

長らく続いた九州の戦国時代は、天正15年、1587年、豊臣秀吉による九州平定で終わりを告げます。薩摩の島津氏を降した秀吉は、凱旋の帰路、箱崎に20日間ほど滞在し、九州の領土を諸大名に配分するなど、戦の後始末を行いました。そんななか、キリスト教宣教師に国外退去を命じる、バテレン追放令を発令します。 実はその前日、秀吉は宣教師とともにフスタ船という南蛮の船に乗り込み、戦乱で荒れ果てた博多の状況を検分したばかり。宣教師たちは突然の命令に驚愕しました。戦国時代、キリシタン大名の大友氏が治めた博多では、教会と修道院が建設され、神父や修道士が滞在してさかんに布教活動が行われました。 慶長18年、1613年以降、より厳しくなるキリスト教禁止令の第一歩がここ箱崎の地で記されたのです。
第7章 「福岡藩の時代」

29.【コーナー解説】(7.福岡藩の時代)

江戸時代の幕開けは、「都市・福岡」の始まりでもありました。 その生みの親が、黒田長政(くろだながまさ)です。慶長5年、1600年に起きた関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍を勝利に導く活躍をみせ、筑前国ほぼ一国を与えられました。 ここに黒田家を領主とする福岡藩が成立。17世紀から19世紀の中頃にかけて、現在の福岡県北西部一帯を治めたのです。 長政によって築かれた福岡城と城下町・福岡は、中世以来の商業都市であった博多とともに、福岡藩の経済や産業の中心地として発展しました。 この時代、幕府の政策により外国との往来や貿易が制限されていました。しかし、福岡藩ではオランダと中国との貿易地であった長崎の警備などを通じて、さまざまな人々が外国の文化や学問に触れる機会に恵まれました。

30.正保福博惣図

こちらは、江戸時代、福岡藩を治めた黒田家の城である福岡城と城下町を描いた絵図です。正保3年、1646年、江戸幕府に提出するために製作したもので、これは控として福岡藩の手元に残されました。 絵図の下側をご覧ください。南から北に向かって連なるゆるやかな山の先端に築かれたのが、福岡城です。城の周囲には堀が巡らされています。西側には入江を利用して作られた大堀が、東側にも中堀と肥前堀という2つの堀が設けられました。   画面右下から海に向かって流れるのは、那珂川です。これを境に、東側には中世以来の商業都市である博多、西側には福岡城の築城とともに作られた福岡という2つの町からなる大きな城下町がありました。この絵図に描かれた道筋は、いまも市街地に多く残っており、江戸時代の町並みの痕跡をたどることが出来ます。

31.黒田家の甲冑

ここでは、福岡藩主・黒田家に伝来した甲冑を期間ごとに入れ替えて展示します。ガイド機画面も、ご覧ください。 黒田家の礎を築いた黒田如水(くろだじょすい)とその息子・長政の甲冑は、当世具足(とうせいぐそく)と呼ばれます。「当世」とは「現代」の意味で、つまり安土桃山時代に流行した「今風の甲冑」です。 兜はどれも奇抜なデザインで、赤いお椀をひっくり返したような合子形兜(ごうすなりかぶと)は、如水の愛用品。長政が好んだのは、大きな角が特徴の大水牛脇立兜(だいすいぎゅうわきだてかぶと)と一の谷形兜(いちのたになりかぶと)という変わり兜でした。二人の兜は黒田家の戦いのシンボルとなり、先祖の成功にあやかろうと歴代の藩主たちが似た兜を作りました。 一方、江戸時代中期以降の藩主の中には、室町時代の伝統的なつくりの甲冑を好む人もいました。兜には、黒田家の家紋、藤巴紋があしらわれています。いずれも如水や長政のものと比べると重く、着用する機会も限られていました。

32.黒田如水像・黒田長政像

安土・桃山時代、豊臣秀吉や徳川家康といった天下統一を狙う武将のもとで活躍したのが、黒田如水と長政親子です。ここでは、2人の肖像画をご覧ください。 向かって右側、ひじ掛けにもたれかかり、くつろいだ姿で表されているのが黒田如水です。亡くなって3年後、慶長12年、1607年に描かれました。如水は、秀吉の参謀として有名ですが、黒田家が筑前国、現在の福岡県に入った時にはすでに隠居していました。 その頃当主だったのは、向かって左側、甲冑を着て馬に乗った姿で描かれた息子・長政です。慶長5年、1600年の関ヶ原の戦いで活躍し、筑前国ほぼ一国を与えられました。翌年、長政は父親と共に新しい城と城下町の建設に取り掛かります。黒田家ゆかりの地で、現在も岡山県瀬戸内市長船町(おさふねちょう)に残る「福岡」という地名を城と城下町に付けました。

33.貝原益軒

19世紀、日本を訪れたドイツ人医師シーボルトに、「東洋のアリストテレス」と呼ばれた人物がいます。この掛軸に描かれた貝原益軒です。 益軒は、寛永7年、1630年に福岡藩の武士の家に生まれました。若い頃、京都で孔子の教えを学ぶ朱子学を修めた後、藩の儒学者となります。こちらは、執筆中の姿でしょうか。85歳の高齢で亡くなるまで、多くの著作を残しました。黒田家の歴史書「黒田家譜(くろだかふ)」や、郷土・福岡の地理をまとめた「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」がその代表です。 また、中国で発展した薬用の植物や動物などを研究する本草学(ほんぞうがく)を勉強し、日本で最初の本草学の本「大和本草(やまとほんぞう)」を編纂しました。当時の出版ブームにあわせて、儒学の教えをわかりやすく説いた教訓物や、西日本各地の名所旧跡の案内記なども知られます。最晩年の著作「養生訓(ようじょうくん)」は、自らの健康管理をもとに記した医学書で、現代まで広く一般に読み継がれています。

34.年行司の旗

これは、江戸時代の博多の商人・奥村家に伝えられた年行司(ねんぎょうじ)の旗です。 ふたつの城下町、福岡と博多には、商工業や運輸、交通の仕事に携わる人々の住む町が、福岡に約30、博多に約100ありました。この町の一つ一つには、年寄とよばれる町役人が置かれ、一定の自治が行われました。 年行司とは、年寄たちの上に置かれた役職です。数多くの町全体をとりまとめ、いわばその代表者として、町奉行による都市の行政と商人たちを結びつける役目を持っていました。 江戸時代の初め、年行司の多くは、福岡や博多の町人の中でも、古くから大商人の系譜を持つ人々でした。一方、江戸時代の中ごろ以降は、経済や流通の発展に乗じた新興の問屋などの大商人が就任。また織物などの製造業や加工業などの産業も発展し、様々な職人が活躍するようになりました。

35.本草正画譜

江戸時代後期、博多・呉服町に薬を調合・販売する薬種商を営み、本草学者(ほんぞうがくしゃ)としても活躍した内海蘭渓(うつみらんけい)という町人がいました。蘭渓は自宅の近くで、薬草をはじめ観賞用など数千種類にも及ぶ植物を栽培していました。植物の名前を正しく理解するため、育てた植物の写生図を作り、それを全国的に有名な本草学者・小野蘭山(おのらんざん)の元へ送って教えを請いました。 蘭渓が作った写生図は、後に本草学の研究に熱心だった福岡藩10代藩主・黒田斉清(なりきよ)の知るところとなりました。斉清は、自身の研究成果を活かし、描かれている植物の名前に修正を加えました。 藩主と町人、学者といった立場を越えた学問の交流を通してまとめられた写生図が、この「本草正画譜(ほんぞうせいがふ)」です。
第8章「近代都市・福岡の時代」

36.【コーナー解説】(8.近代都市・福岡の時代)

明治4年、1871年、福岡藩は廃止され、福岡県が成立します。明治22年、1889年4月に市制が施行されると、福岡藩時代の二つの町、福岡と博多を合わせ、福岡市が誕生しました。 当時欧米で開催されていた万国博覧会に倣ったイベント「九州沖縄八県連合共進会」が2回開かれた他、昭和のはじめにも博覧会を開催。その度に市街地と交通網が整備され、福岡市は発展していきます。 大正時代からすすめられた周辺町村との合併により、面積・人口は増え続け、昭和に入ると、福岡市の人口は九州の都市の中でトップになりました。 しかし昭和20年、1945年6月の福岡大空襲で、市の中心部は大きな被害をうけます。第二次世界大戦後は、復興祭や国民体育大会を通じて、戦後復興のムードを高めました。

37.午砲(ドン)

毎日、昼になるとこの音が聞こえる。 こちらの午砲は、正午を知らせるために使われた大砲です。その音から、「ドン」という愛称で福岡市民に親しまれました。 明治19年、1886年7月、政府は、2年後の1月1日から、イギリスのグリニッジ天文台を基準として、東経135度を日本の標準時とすることを決めました。法律の施行にあわせ、福岡では午砲会社が作られ、明治21年、1888年7月から使用がはじまりましたが、ほどなくして福岡市の事業になりました。 当初、須崎の台場に設置されましたが、大きな音に苦情が出たため、西公園の山の上に移され、さらに港の波止場に移動しました。午砲は三代目まで代を重ね、昭和6年、1931年まで続けられました。

38.錦絵「九州沖縄連合第五回福岡県共進会場之図」

九州沖縄八県連合共進会は、沖縄県を含む九州の8県が出品する博覧会です。会場は各県の持ち回りで、明治20年、1887年に第5回共進会が福岡県で開催されました。こちらは、その会場の様子を表しています。開催地は福岡市・東中州。江戸時代の終わり、福岡藩の精錬所などの近代科学施設が置かれた場所でした。 画面中央右に見える白壁で2階建の西洋風建築は、共進会の本部です。その隣にあるレンガ造の建物は、福岡県内の名士の社交場として設けられた「福岡くらぶ」。小さく描き込まれた人々で、にぎわいを見せています。画面左下の白い建物は、九州大学医学部の母体となった、県立福岡医学校付属病院です。 共進会終了の後、その本部は福岡市会の議事堂として明治24年、1891年まで使用され、「福岡くらぶ」は博多米商会所になりました。

39.アロー号

ご覧のアロー号は、現存最古の動く国産自動車です。平成21年、2009年に日本機械学会の「機械遺産」に登録されました。 制作したのは、福岡工業学校出身の矢野倖一(やのこういち)。もとは飛行機に関心を持っていましたが、実業家・村上義太郎に車のエンジンの修理を依頼されたことをきっかけに自動車を作り始めます。 「アロー号」という名は、矢野の苗字から一字をとり、英語にしたものです。パーツは可能な限り手作りしましたが、一部外国製を使用しています。 大正4年、1915年、完成間もなくのテスト走行は、失敗。原因は気化器(キャブレーター)でした。矢野は、すぐにイギリス製のものを入手し、取り付けました。最終的にアロー号が完成したのは、翌年8月のこと。矢野24歳の時です。 完成から100年以上経った現在でも、アロー号のエンジンは正常に動きます。

40.雁ノ巣飛行場格納庫窓枠

この大きな丸い金属製の枠は、現在の福岡市東区奈多、かつての糟屋郡和白村にあった飛行場の格納庫に使われた窓枠です。 昭和11年、1936年、水上飛行機用設備を備えた飛行場として、福岡第一飛行場が開港しました。日本でも有数の国際飛行場で、地名をとって、雁ノ巣(がんのす)飛行場とも呼ばれます。 当時の飛行機は飛行距離が短かったので、東京・大阪から朝鮮半島や中国大陸に向かう際、雁ノ巣飛行場を経由して給油を行いました。第二次世界大戦中は軍用機も使用しましたが、戦後は一時アメリカ軍に接収されました。 飛行場の格納庫は使われないまま老朽化していき、平成14年、2002年に取り壊されました。その跡地には、飛行場建設の経緯が刻まれた小さな記念碑が残されています。

41.陶製鏡餅

これは、第二次世界大戦の時期に、陶器でつくられた鏡餅です。 本来であれば、神仏に供えるお正月飾りは、餅米でできた餅のはず。しかし、当時の日本では、軍事に関するものに、限られた物資・資源を優先的に配分していました。武器を生産するため、鉄や銅などの金属類は、一般家庭の鍋からお寺の鐘、公園の銅像まで、さまざまなものが回収された程です。 直接戦闘に参加しない銃後(じゅうご)と呼ばれる国民には、食料や衣類などが配給されましたが、貴重な食料を飾りに使わないですむようにと、この陶器の鏡餅は作られたのです。 戦争の時代には、物資や資源の節約のため、別の素材を使った「代用品」が作られました。食べ物の場合も同じで、こうした鏡餅の他、米の代わりに、イモや豆類を用いた代用食も登場しました。

42.第3回国民体育大会ポスター

戦争によって荒廃した国土、意気消沈した国民に、スポーツを通じて希望と意欲を回復させようと、昭和21年、1946年に国民体育大会が始まりました。福岡県と福岡市は、大会の誘致運動を行い、昭和23年、1948年、第3回大会が福岡県で開催されることになりました。こちらは、そのポスターです。 福岡城跡の中に、陸上競技場、サッカー場、ラグビー場などが建設され、これらの施設は総称して「福岡平和台総合運動場」と命名されました。 開会式、閉会式をはじめ、多くの競技がこの運動場で行われました。国民体育大会の際にサッカー場だった場所は、整理されて平和台球場となり、平成9年、1997年に閉鎖されるまで、市民に親しまれました。
第9章 「現代の福岡」

43.【コーナー解説》(9.現代の福岡)

第二次世界大戦後、福岡市の人びとのくらしは大きく変化します。 高度経済成長期を迎えた昭和30年代以降、人口が増え、住宅が不足していました。日本住宅公団は、2DKの間取りに水洗トイレやステンレススチールの流し台を機能的に配置した住宅を建設。福岡市に九州初の公団住宅、曙団地が誕生しました。 現在も人々の暮らしを支える、天神・新天町商店街には、街頭テレビが置かれ、人びとが立ち止まって野球放送に見入っていました。平和台球場を本拠地とするプロ野球チーム、西鉄ライオンズが日本シリーズを3連覇したのもこの頃です。 平成元年、1989年には、市制施行100年を記念してアジア太平洋博覧会が開催されました。この時、百道海岸の埋め立てが行われ、現在この福岡市博物館がある、シーサイドももち地区が作られました。

44.西鉄ライオンズユニフォーム

福岡では戦前に西日本鉄道がオーナーになったプロ野球チーム、西鉄軍がありましたが、昭和18年、1943年に解散しました。 第二次世界大戦後の昭和25年、1950年、「西鉄クリッパース」と「西日本パイレーツ」の2球団が福岡で生まれ、翌年に両チームが合併して「西鉄ライオンズ」が誕生しました。 三原脩(みはらおさむ)監督のもと活躍したライオンズのスター選手と言えば、中西太(なかにしふとし)、豊田泰光(とよだやすみつ)。そして、「鉄腕投手」稲尾和久(いなおかずひさ)は、「神様、仏様、稲尾様」のキャッチフレーズで知られたチームの象徴です。昭和31年、1956年から3年連続で日本シリーズを制しました。このユニフォームは、その時期のものを復元しています。 この頃の福岡は、戦後の復興が一段落したとはいえ、まだまだ貧しさから抜け出せていませんでした。「西鉄ライオンズ」の活躍は、福岡の人々に元気を与えたことでしょう。

45.未来之大福岡之図

これは、西日本新聞社の前身の一つである福岡日日新聞社が、昭和13年、1938年に制作した衝立(ついたて)です。この年、福岡市は成立50周年を迎え、「市制発布五十周年式典」が開催されました。 衝立は、式典に出品された後に福岡市に寄贈されました。前面には豊臣秀吉が行った都市整備「太閤町割(たいこうまちわり)」の図が表されています。手掛けたのは、博多人形師・小島与一(こじまよいち)です。 背面に描かれたのは、当時の人々が夢見た福岡市の未来予想図。街には高層ビルが建ち並び、広い道路には自動車が行き交っています。ビルの形は様々ですが、多くは中庭が吹き抜けになっているのが特徴です。 街の上に広がる港には大型の船が碇泊し、飛行機の発着場が設けられています。博多港を中心に発展する明るい未来を願って作られました。
第10章 「福博人生」

46.【コーナー解説】(10.福博人生)

日本全国、各地域には、その土地ならではの生活や文化があります。もちろん、ここ、福岡・博多にも。 このコーナーでは、福岡に住む人々が、生まれてから亡くなるまでの節目節目に行う、地域特有のしきたりや風習についてご紹介しましょう。 これは福岡に住む、ある家族の物語。主人公の13歳の少年と、そのお父さんとお母さん、お祖父さんとお祖母さん、そのまたお祖父さんとお祖母さんからなる4世代家族のお話です。 それぞれの世代は、「一人前」、「結婚と子育て」、「老い」、「死」という4つのテーマと深く結びついています。 そこには一体どんな暮らしがあるのか。福岡に生きる人々の一生を追ってまいりましょう。

47.かき棒と背くらべ

福岡・夏の代名詞と言えば、博多祇園山笠。博多を代表する夏祭りで、毎年7月1日から15日にかけて行われます。祭りの最大の見せ場は、何と言っても「追い山」です。ご覧の大きな人形飾り「山笠」を男たちが担ぎ、町を駆け巡ります。これを博多の人々の言葉で「山笠を舁(か)く」と言い、担ぐための棒を「舁き棒(かきぼう)」と呼びます。 祭りの賑やかな声が聴こえてきました。おや?どうしたのでしょう。少年が舁き棒に肩を付けようと顔をしかめ、爪先立ちをしています。山笠の世界では、舁き棒に肩が届いてはじめて山笠を舁くことができます。博多の子どもたちにとって舁き手の仲間入りは憧れであり、大人になることを表すもの。「舁き棒に肩が付く」とは、博多ならではの「一人前」を示す判断基準なのです。

48.嫁御ぶり

それは、ある正月のこと。娘が福岡へ嫁いで初めての年、実家の両親のもとへお婿さんから突然大きな荷物が届きました。一体何が入っているのでしょう。…箱を開けてびっくり!丸々と太った立派なブリです。 「結婚」は、時にこれまで生きてきた世間とは異なる「あたりまえ」を知るきっかけにもなります。例えば、こちらもそんな出来事の一場面。福岡ならではの習慣に、驚かされたのでしょう。 福岡では、結婚してはじめて迎える正月に、嫁方の実家に「嫁御(よめご)ぶり」と呼ばれるブリを贈る風習があります。「ブリ」には、「娘さんはよくやってくれていますよ」と、「良い嫁っぷり」であることへの感謝の意味が込められています。

49.博多松ばやし

博多の代表的な祭りのひとつ「博多どんたく」に参加する老夫婦が、町中で知人を見つけ、楽しそうに話しています。 二人は、明治26年、1893年から続く、日本一古いと言われている老人クラブ「博多高砂連(はかたたかさごれん)」のメンバーです。同世代の仲間と、博多に古くから伝わる歌や踊りを今に伝える「どんたく隊」として祭りに参加しています。着物や法被姿で三味線を弾きながら歩き、盛り上げるのです。 また「絵馬曳(えんまひ)き」と呼ばれる行事では、初老の40歳以上、または還暦である60歳を過ぎた人々が長寿を祝います。相撲の番付表のように最年長者から順に名前を刻んだ大きな絵馬を曳いて、賑やかに町を歩き、神社へと奉納します。 年を重ねた人々は、地域の伝統行事の担い手であり、それを次世代へつなげる役割を果たす重要な存在なのです。

50.追善山

福岡を代表する夏祭り「博多祇園山笠」のある日。その年の内に亡くなった故人の家の前には、祭壇が設けられ、遺影と法被が飾られています。そこへ山笠が普段よりも静かにやって来ました。心なしか悲しげに「博多祝い唄」を歌いながら、祭りに関わった功労者に対し、感謝と冥福を祈ります。「追善山(ついぜんやま)」です。この時、残された家族は、町の人々から信頼・尊敬されていた故人の姿をはじめて知ることになりました。 何かに夢中になることを、博多弁では「のぼせる」と言い、山笠に情熱を注ぐ人を「山のぼせ」と呼びます。博多に生まれ、山笠を愛する「山のぼせ」にとって、「追善山」は、なにものにも代えがたい名誉であり、また幸せの象徴なのです。

51.博多祇園山笠

こちらは、博多の夏を彩る祭り「博多祇園山笠」の舁き山笠です。高さ約4・5メートル、重さはなんと約1トン。これを男たちが担ぎ、町を駆け巡ります。舁き山笠の飾りは、工夫が凝らされた個性的なものばかり。博多人形師による大きな山笠人形、そのまわりには紙や竹でできた波や岩などが据えられます。ご覧の舁き山笠の飾りは、福岡藩の藩祖・黒田官兵衛です。 毎年7月15日に行われる博多祇園山笠のクライマックス「追い山」では、4時59分に太鼓が鳴り、七つの山笠が5分おきに順に櫛田神社境内に走り込みます。「櫛田入り」をしたそれぞれの山笠は、約5キロ先にある終点「廻り止め」まで、前の山笠を追うように一気に駆け抜けます。 かつては高さ10メートルを超える山笠が町を走っていました。しかし、明治時代に入り、電線の整備や路面電車が開通すると、背の高い山笠は町を走ることができなくなりました。以降の山笠は、動かさない豪華絢爛な「飾り山」と舁きまわる勇壮豪快な「舁き山」に分かれたのです。

52.博多祇園山笠巡業図屏風

ご覧の屏風は、江戸時代の博多祇園山笠を描いた、現存最古の山笠図です。場面は貞享(じょうきょう)3年、1686年頃。祭りの準備から当日までの、活気溢れる様子が伝わります。 画面右手に表されたのは、板を担ぎ、木槌をふるう人々の姿。素山(すやま)とよばれる山笠の骨組を組み立てています。 中央には、博多の大通りを練り歩く男たち。人形と旗で飾られた山笠は、現在の物よりもずいぶん背が高く、豪華な飾りです。場面が進んだ画面左手には、祇園様が祀られる櫛田神社に山笠が奉納される様子が描かれています。 よく「神輿(みこし)を担ぐ」と言いますが、博多では昔から「山笠を舁く」と表現します。山笠を舁くことが出来るのは、博多約100の町の内7つの流と呼ばれるグループに所属する町のみ。各流の中で、その年の当番となった町が山笠を作りました。費用は日頃から当番の町内で積み立てられ、個性溢れる華やかな飾りで、その豪華さを競ったのです。
エピローグ

2.金印

金印・・・歴史の教科書に必ず出てくる、国宝です。江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で、地元の農民が作業中に偶然発見しました。四角い部分はおよそ2.3センチ四方、重さは109グラムほど。つまみはとぐろを巻いた蛇の形をしています。 金印に刻まれている5つの文字は、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」。ここから、漢の皇帝が奴国の王に与えた印であると分かります。中国の歴史書「後漢書(ごかんじょ)」には、建武中元2年、すなわち西暦57年に、光武帝(こうぶてい)が倭奴国(わのなこく)から来た使者に「印綬(いんじゅ)」を与えたことが記されています。志賀島で発見された金印は、おそらくそのときの「印綬」。中国王朝が奴国の王を認めた証しといえるのです。 はるか2000年前、ここ福岡の地で繁栄を極めた奴国は、弥生時代の日本列島を代表する王国でした。

3.金印の使用例

印というと、朱肉で紙に押すハンコを思い浮かべる方が多いかもしれません。金印はそれとは違い、粘土に押すためのスタンプ印です。 文書行政が発達した古代中国の漢では、機密保持と発信者を明確にするために公文書を封印していました。実際にどうしていたかというと、まず竹簡や木簡といった、竹や木の札に記した文書を箱などに入れ、そこに紐をかけます。そして紐の結び目に板と粘土で封をし、そこに印を押していました。これを「封泥(ふうでい)」と呼びます。金印の文字の部分が掘りこまれているのは、粘土に押した文字を浮かび上がらせるためなのです。

4.『金印弁』

天明4年、1784年に金印が発見された当初、それが何であるかは分かりませんでした。溶かして武具の飾りにしてしまおうという意見もあったほどです。そこに一つの答えを導き出したのが、この「金印弁(きんいんべん)」という書物を記した亀井南冥(かめいなんめい)。福岡藩の儒学者で、藩の学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長を務めていました。南冥が、金印を、中国の歴史書「後漢書」にでてくる、光武帝が奴国の王に与えた印綬と一致すると、初めて説いたのです。 この本は南冥の学説をまとめたもので、金印発見の場所を示した志賀島の絵図や、金印に朱肉を付けて紙に押した印影が付録で付けられています。南冥が金印を後漢の時代のものであると強く説いたため、人々はその重要性を知ることとなりました。そして金印は、福岡藩主の黒田家に保存されることになり、今日に伝わったのです。

5.【コーナー解説】(2.福岡のあけぼの)

福岡の地に人が暮らし始めたのは、およそ3万年前の旧石器時代のことです。寒冷な気候で、人々はナウマンゾウなどの獲物を追い、移動して暮らしていました。遺跡からは当時の狩人たちが槍の先端や刃物などに使用していた石器がみつかっています。 1万5千年前頃になると、温暖化が始まって環境が変わります。人々は土器や弓を使い、竪穴式住居に暮らすようになりました。縄文時代の始まりです。縄文土器はドングリのあく抜きや食べ物を煮炊きするための容器でした。その形や文様は、地域や時代によって違いがあります。 さて、古くから東アジアに開かれた窓口であった福岡。その大陸との交流は、金印の時代よりもはるかに遡り、旧石器時代や縄文時代からはじまっていました。その交流を物語る出土品をご紹介してまいりましょう。

7.剥片尖頭器

こちらは、九州一円で見つかっている、剥片尖頭器(はくへんせんとうき)と呼ばれる石器。黒曜石や安山岩などの塊りから縦長のかけらをはぎとって、槍先の形に加工しました。大型の獣を狩る槍に使われたようです。 これと同じ形の石器が朝鮮半島でもみつかっています。最も寒い時期だったおよそ2万年前、海面が下がり、狭くなった対馬海峡を越えて伝わったのでしょう。旧石器時代にはじまる大陸との交流を物語っています。

8.貝面

貝殻に開いた穴が、人の顔のように見えますね。こちらは「貝面」。まさに、貝殻を加工して作ったお面です。縄文時代の福岡や熊本の貝塚からみつかっています。 朝鮮半島・釜山市の貝塚からは、これと同じような貝面のほか、九州からもたらされた縄文土器や黒曜石の石器なども出土しています。縄文時代、温暖化で海水面が上がり、海岸線も現在に近づいていました。しかし、九州と朝鮮半島では魚などを採る道具にも共通性があり、縄文時代の海を通じた文化的な交流がうかがえます。

9.【コーナー解説】(3.奴国の時代)

中国の皇帝に使者を送り、金印を授かった奴国。この国が存在したのは、弥生時代にあたります。 2500年以上前、北部九州の玄界灘沿岸に、朝鮮半島から水田稲作が伝わりました。いち早く稲作文化を受け容れた福岡では、農耕集落が築かれ、弥生時代が始まります。さらに、福岡は青銅器や鉄の文化といった大陸文化を受け容れる窓口にもなりました。やがて、人々は村をまとめて国をつくり、東アジア社会との外交が本格的にはじまったのです。 この福岡の地にあった奴国は、そうした社会的変化が先んじて進んだ国でした。わが国における農業、工業、外交のはじまりを、奴国の歴史にみることができます。

10.板付遺跡(模型)

ここに再現されているのは、博多区にある板付(いたづけ)遺跡。日本最古の農耕集落の一つです。標高11メートルほどの台地の上に集落を築き、周囲の低い土地に用水路や堰を伴う水田を営んでいました。南北およそ110メートル、東西80メートルの範囲を深い壕で囲んだ集落で、環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれています。周りには墓地もあるのがご覧頂けるでしょうか。 技術的に完成された水田と農耕集落からなる板付遺跡は、日本の原風景である農村のルーツ。そして弥生時代のはじまりを象徴する遺跡です。この地で完成された稲作農耕文化が、日本列島の各地へとひろがっていきます。

11.吉武高木遺跡(模型・出土副葬品)

博多湾沿岸の中央に位置する早良平野に、吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)があります。そこで、青銅器といった様々な副葬品をもつお墓がみつかりました。時代は紀元前3世紀頃。日本列島で青銅器などの金属が本格的に使用されはじめる、弥生時代中期です。朝鮮半島から青銅製の武器や鏡などが伝わり、北部九州でも生産がはじまりました。 同じようなお墓でも、副葬品の少ない博多区の金隈(かねのくま)遺跡は、おそらく村に住む人々の共同墓地でしょう。一方で、吉武高木遺跡には様々な貴重品と一緒に埋葬されたお墓が集中しており、小さな国を指導した有力者たちの墓と考えられています。中でも3号木棺墓から見つかったのは、鏡と三種類の武器、翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)に、碧玉(へきぎょく)の管玉(くだたま)の首飾りなど、当時としてはおそらく最高級の副葬品のセット。そのため「最古の王墓」と呼ばれています。

12.鋳型(伝八田)

朝鮮半島から青銅器が北部九州に伝わり、その生産もはじまりました。青銅器は、製品の形を石などに彫り込んだ鋳型を用意し、そこに高温で溶けた銅の合金を流し込んで作ります。そのような鋳型が多くみつかっているのが、奴国です。北部九州を代表する青銅器の生産地があり、弥生時代のテクノポリスと呼ばれています。 福岡市東区八田(はった)で、土地の造成工事中に発見されたといわれる石の鋳型が5点伝わっています。多くは戈(か)と呼ばれる武器の鋳型ですが、剣や矛の鋳型もあります。武器の形をした青銅器が、実戦的なものから徐々にお祭りや儀式の道具へと変わる段階のものです。鋭い刃をもたず、大型化していきました。

13.甕棺

弥生時代、北部九州の一部地域では、甕棺墓(かめかんぼ)という埋葬が行われていました。大きな土器を棺とする方法です。奴国でも、この甕棺墓が流行していました。 深く掘った墓穴に甕棺を据えますが、木や石で蓋をしたものや、甕棺2つの口を合わせてつなげたものなど様々な方法がありました。埋葬する人の年齢や体格に応じて大きさを使い分けたほか、身分の高い人がより大きな甕棺に埋葬される傾向もあります。 甕棺には絵が描かれたものもみつかっています。吉武高木遺跡の甕棺には鹿が2頭刻まれており、弥生時代の絵画としては最も古いものです。鹿は農耕に関わる神話がモチーフと考えられています。

14.【コーナー解説】(4.鴻臚館の時代)

4世紀、中国大陸や朝鮮半島では、国の分裂と争いが続く時代を迎えます。その頃の日本列島はちょうど古墳時代。大陸の情勢に強く影響を受けつつ、国家が形作られていきました。 海を越えた人や文化の往来には、その時代の国際情勢が顕著に現れます。大陸に近い博多湾沿岸は、まさに、外交・軍事・交易の最前線でもありました。そして、律令国家へとむかう7世紀後半には、大宰府の整備がはじまります。九州と周辺の島々を西海道と呼びましたが、大宰府はその一帯を治める役所のことです。このとき外交の第一線を担う拠点として、のちに鴻臚館(こうろかん)と呼ばれる筑紫館(つくしのむろつみ)が築かれました。

15.那津官家

6世紀、倭、つまりヤマトの軍勢が、朝鮮半島を伺って西にやってきます。北部九州一帯で大きな力を持っていた豪族・磐井(いわい)は、それを遮り、倭の軍と戦うも、破れました。これが筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱です。その後、倭の政権は支配を強めるため、那津(なのつ)と呼ばれた博多湾沿岸に、直轄地である官家(みやけ)を設置します。一方、朝鮮半島では同じ頃、高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)が対立して緊張感が高まっていました。那津は軍事上の最前線の役割も担っていたのです。 那津官家には倉庫が立ち並ぶ区域があり、物資が集められました。博多区の比恵(ひえ)遺跡群や、早良区の有田(ありた)遺跡群では、そうした倉庫らしき建物の痕が見つかっています。また、博多区那珂(なか)遺跡群では、7世紀前半の大規模な建物や施設のほか、ご覧のような、九州で最も古い瓦が見つかりました。おそらく、大宰府の起源はこの地にあったのでしょう。

16.鋤崎古墳(石室模型、出土品)

鋤崎古墳(すきざきこふん)は、西暦400年前後に造られた、全長62メートルの前方後円墳です。福岡市西区、今宿平野に位置し、当時、その一帯を治めた豪族が後円部の石室に埋葬されました。盗掘を免れた石室内には、鏡や勾玉、管玉、鉄の武具、農具などが大量にみつかっています。副葬品の組み合わせから、最初に埋葬された人物は女性の首長だったようです。 この石室内には3つの棺がありますが、横から出入りできる門があり、埋葬のたびに開け閉めされました。このような石室を横穴式石室と呼びます。日本ではその起源となる石室が、まず、唐津から福岡の玄界灘沿岸に現れ、ほどなく最初の横穴式石室をもつ鋤崎古墳がつくられました。そのルーツは、朝鮮半島の横穴式石室とみられます。日本はもとより、朝鮮半島ですら、まだ竪穴式石室が多い時代に、先進的な文化をいち早くとりいれていたのです。古墳時代、九州と大陸の独自の交流が続いていたことが伺えます。

17.鴻臚館出土品(筑紫館、外交の時代)

九州を治める役所・大宰府と、その外交の拠点・筑紫館(つくしのむろつみ)、のちの鴻臚館(こうろかん)は、7世紀後半からつくられはじめました。そして奈良時代の8世紀になって、瓦葺きの建物が並ぶ厳かな施設に生まれ変わります。この時、大宰府政庁や筑紫館に葺かれた瓦は、鴻臚館式とも呼ばれますが、平城京の瓦をモデルに作られました。一方、鬼瓦は平城京のものとは大きく異なり、大宰府独自のデザインでした。 筑紫館には、この時代では珍しいトイレも設けられました。深さ4mほどの穴で、専用の瓦葺きの建物に覆われていたようです。穴からみつかった大量の細長い木片は、籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる古代のトイレットペーパーでした。  奈良時代の筑紫館は、唐や新羅の使節が出入国する際、一時滞在する施設でした。また、わが国が派遣した遣唐使や遣新羅使などもここから船出していったのです。

18.鴻臚館出土品(鴻臚館、外交から交易の時代へ)

平安時代の9世紀頃になると、外交の拠点である筑紫館は、鴻臚館と呼ばれるようになります。この時代には外交使節が途絶え、代わって、新羅や唐などの商人が多く来航するようになりました。商人たちもまずは鴻臚館に入り、朝廷の許可を待って交易を行なったのです。鴻臚館は外交の場から、外国商人が滞在し、交易をおこなう場へと変化しました。 鴻臚館跡に残された、越州窯青磁(えっしゅうようせいじ)をはじめとする中国の陶磁器は、商人たちが携えてきたものでしょう。他にも、イスラム系陶器やペルシャ系ガラス容器といった西アジアの文物も見つかっています。当時の中国には、海のシルクロードと呼ばれる海路を通じて、西アジアからの品々が集まっていました。鴻臚館には、おそらく唐や新羅を経由してもたらされたのでしょう。

19.【コーナー解説】(5.博多網首の時代)

さあ、ここからは、1000年前から700年ほど前、博多で盛んになった、外国との交流の歴史を紹介してまいりましょう。 鴻臚館での対外貿易が幕を閉じたのは、平安時代の中頃、11世紀の半ばのことです。そして、外国との交流の舞台は博多に移りました。古代の博多に終わりを告げ、新たに中世博多の歴史が始まります。貿易の担い手は、「綱首(こうしゅ)」と呼ばれる、博多に住む中国人の商人たち。「綱」は船団などの組織、「首」はリーダーを意味します。彼らは博多に日本で最初のチャイナタウン「唐房(とうぼう)」を作りました。日本人と結婚し、神社や寺院に属してその保護を得た網首たちは、中国と博多の間を行き来して、ものだけでなく、様々な文化の交流を担ったのです。

20.墨書陶磁器

 博多で発掘調査を行うと、中国から輸入された陶磁器が膨大な量で出土します。中には、お椀や皿の裏側、高台部分に、王・丁・李といった様々な中国人の名前が墨書きされているものがあります。これは貿易船の積荷の所有者を表示したもので、他の地域ではほとんど見られない、博多特有の遺物です。 この他、博多では、輸入された陶磁器が一括して捨てられた遺構や、輸入品を詰め込むコンテナとして利用された大型の容器が見つかっています。これらはまさに、博多が外国の文物を輸入する窓口だったことの証。国際貿易と国内流通を結ぶ拠点であったことを示しているのです。

21.誓願寺盂蘭盆一品経縁起

古来、博多湾は、外国との交渉や異国の文化がもたらされる窓口でした。湾内には博多や箱崎など、外国の船が往来する港がいくつか点在し、その一つが、西側に位置する今津です。 今からおよそ800年前、今津で一人の僧侶が、密教の書物の執筆や、経典の研究に精を出していました。後に臨済宗の祖と仰がれる、栄西(ようさい)です。日本に禅とお茶を飲む喫茶文化を広めたことでも知られます。 1168年、栄西は初めて中国・南宋に渡った後、1173年から約14年間にわたり博多湾周辺で活動しました。特に1176年から1178年までは、今津の誓願寺にて、中国から経典がもたらされるのを待っていたのです。このとき寺で、盂蘭盆会(うらぼんえ)という儀式に際し、法華経二十八品(ほけきょうにじゅうはちほん)を1品(いっぽん)ずつ分担して写す、一品経(いっぽんぎょう)の書写が行われました。その功徳(くどく)を讃え、栄西が記したのが、『誓願寺盂蘭盆一品経縁起(せいがんじうらぼんいっぽんぎょうえんぎ)』。国宝に指定されている直筆の書です。

22.少弐経資書下

アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築いたモンゴルの大軍が、日本に攻め寄せてきた蒙古襲来。 1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、二度にわたり博多湾に押し寄せました。文永の役では、モンゴル軍の集団戦法や火薬を用いた鉄炮など、新兵器に日本軍は苦戦を強いられます。 そこで鎌倉幕府は、次の襲来に備えて二つの作戦を立てました。一つは実現しませんでしたが、モンゴル軍の出撃基地となった高麗を攻めること。もう一つは、敵の上陸を拒むため、博多湾沿岸に元寇防塁という石の壁を築くことでした。 展示されている文書、『少弐経資書下(しょうにつねすけかきくだし)』は、朝鮮半島に出陣する武士を除き、国中の御家人にその建設を命じたものです。わずか半年で、およそ20キロメートルの防塁が築かれました。 その甲斐あって、2度目の弘安の役では、モンゴル軍の上陸を阻止することに成功します。『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』には、肥後国(ひごのくに)の御家人たちが築いた生の松原の元寇防塁が描かれています。

23.高辻長衡書状

京都の公家・高辻長衡(たかつじながひら)が、太宰府天満宮の小鳥居法眼(ことりいほうげん)に宛てたお礼状です。ここで長衡は、小鳥居法眼の仲介で、中国から輸入された上等な天目茶碗を入手できた喜びを述べています。さらに、「其境唐物流布(そのさかい、からものるふ)の由伝説候(よし、でんせつそうろう)」つまり、「博多には唐物があふれている」と伝え聞いているので、また、新たによい品があれば手に入れて欲しいと、催促もしています。 当時、京の都では、茶碗をはじめ、中国からもたらされた高価で珍しい品々がもてはやされていました。そして、手紙の「唐物流布(からものるふ)」というフレーズの通り、博多周辺はそうした中国からのブランド品が巷(ちまた)にあふれていたのです。博多は、異国の文化を受け入れる窓口、国際貿易都市として栄えました。

24.【コーナー解説】(6.博多豪商の時代)

このコーナーでご紹介するのは、700年から400年ほど前、14世紀から16世紀の博多の歴史。前の時代と同様に、博多は外国と日本を結ぶ重要な接点、様々な文化の窓口として栄えました。 鎌倉時代半ばの蒙古襲来を経て、博多における交易の担い手は、中国人商人、博多綱首から、日本人へと移り変わります。たとえば、明との貿易を始めた室町幕府3代将軍、足利義満が最初に派遣した使者の一人は、博多商人の肥富(こいづみ)という人物でした。日明貿易や朝鮮との交易では、奥堂氏、澳浜氏、綱庭氏、神屋氏といった博多商人が手腕をふるいます。そうした豪商たちは、琉球と朝鮮の間を行き来するなど、東シナ海を舞台に活躍しました。

25.雪谷宗戒虎丘十詠跋

『雪谷宗戒虎丘十詠跋(せっこくそうかいくきゅうじゅうえいばつ)」。博多・妙楽寺(みょうらくじ)ゆかりの禅僧の、宿願によって中国からもたらされた墨蹟(ぼくせき)です。当時、妙楽寺は「遣唐使の駅」と評され、外交の使節の宿舎となることもあり、室町幕府の外交の出先機関としての役割をはたしました。 「虎丘十詠(くきゅうじゅうえい)」とは中国・南宋時代の禅僧、虚堂智愚(きどうちぐ)が蘇州(そしゅう)にある虎丘山(くきゅうさん)について詠んだ七言詩です。これに13編の後書きが付けられましたが、現在は分割され各地に伝わります。ご覧の墨跡はその最後に書かれたもので、福岡藩の筆頭家老である三奈木(みなぎ)黒田家に伝来しました。時空を超え、中国から日本にもたらされた経緯が記されています。 虚堂智愚の末流に連なる妙楽寺7世の恒中宗立(こうちゅうそうりゅう)、8世の石隠宗璵は、中国で入手したこの虚堂智愚の詩文を持ち帰ろうとしましたが、高齢のため叶いませんでした。そこで、日本の留学僧に託して妙楽寺へ届けられることを祈ったのです。それから100年程さらに中国国内を流転した後、雲南にいた雪谷宗戒(せっこくそうかい)の手配により、ようやく妙楽寺に届けられました。こちらは、日本と中国の文化交流を示す貴重な文物です。

26.『海東諸国紀』

『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』は、朝鮮王朝の宰相・申叔舟(しんしゅくしゅう)が記した書物です。海東とは朝鮮からみた海の東、つまり日本の九州・本州・壱岐・対馬および琉球のこと。それぞれの地域にまつわる情報と、朝鮮との通交の歴史が記されています。 当時の日本は、全国を二分した戦い、応仁・文明の乱の真っただ中で、少弐(しょうに)氏が筑前、現在の福岡県北西部の支配を大内氏から奪回した時期にあたります。この書によると、戦国時代初期の博多は海側を大友氏が、陸側を少弐氏が分割して治め、1万あまりの住居がありました。博多は、「居住する人々は行商を生業とし、琉球や東南アジアの貿易船が集まる所」であり、「朝鮮に往来する者は九州の中で博多が最も多い」と記されています。

27.ルドヴィコ・ジョルジオ作「中国図」

15世紀、ポルトガルとイスパニア、つまりスペインは、競って航海に乗り出し、16世紀の初めにはアジアに到達します。この「大航海時代」を背景に、ヨーロッパでは盛んに世界地図が作られました。 この地図は、1584年に制作されたもので、中国を中心とする東アジアが描かれています。中国大陸の東側、画面の手前に見えるのが、琉球や日本。日本は九州・四国・本州が表され、九州の北部に博多が「Facata」、ファカタと記されています。16世紀の博多は、カトリックの教会が建てられ、宣教師が布教を行い、南蛮貿易の拠点ともなっていました。日本の国内の重要な都市の一つとしてヨーロッパに認識されていたのです。

28.バテレン追放令(豊臣秀吉定書案)

長らく続いた九州の戦国時代は、天正15年、1587年、豊臣秀吉による九州平定で終わりを告げます。薩摩の島津氏を降した秀吉は、凱旋の帰路、箱崎に20日間ほど滞在し、九州の領土を諸大名に配分するなど、戦の後始末を行いました。そんななか、キリスト教宣教師に国外退去を命じる、バテレン追放令を発令します。 実はその前日、秀吉は宣教師とともにフスタ船という南蛮の船に乗り込み、戦乱で荒れ果てた博多の状況を検分したばかり。宣教師たちは突然の命令に驚愕しました。戦国時代、キリシタン大名の大友氏が治めた博多では、教会と修道院が建設され、神父や修道士が滞在してさかんに布教活動が行われました。 慶長18年、1613年以降、より厳しくなるキリスト教禁止令の第一歩がここ箱崎の地で記されたのです。

29.【コーナー解説】(7.福岡藩の時代)

江戸時代の幕開けは、「都市・福岡」の始まりでもありました。 その生みの親が、黒田長政(くろだながまさ)です。慶長5年、1600年に起きた関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍を勝利に導く活躍をみせ、筑前国ほぼ一国を与えられました。 ここに黒田家を領主とする福岡藩が成立。17世紀から19世紀の中頃にかけて、現在の福岡県北西部一帯を治めたのです。 長政によって築かれた福岡城と城下町・福岡は、中世以来の商業都市であった博多とともに、福岡藩の経済や産業の中心地として発展しました。 この時代、幕府の政策により外国との往来や貿易が制限されていました。しかし、福岡藩ではオランダと中国との貿易地であった長崎の警備などを通じて、さまざまな人々が外国の文化や学問に触れる機会に恵まれました。

30.正保福博惣図

こちらは、江戸時代、福岡藩を治めた黒田家の城である福岡城と城下町を描いた絵図です。正保3年、1646年、江戸幕府に提出するために製作したもので、これは控として福岡藩の手元に残されました。 絵図の下側をご覧ください。南から北に向かって連なるゆるやかな山の先端に築かれたのが、福岡城です。城の周囲には堀が巡らされています。西側には入江を利用して作られた大堀が、東側にも中堀と肥前堀という2つの堀が設けられました。   画面右下から海に向かって流れるのは、那珂川です。これを境に、東側には中世以来の商業都市である博多、西側には福岡城の築城とともに作られた福岡という2つの町からなる大きな城下町がありました。この絵図に描かれた道筋は、いまも市街地に多く残っており、江戸時代の町並みの痕跡をたどることが出来ます。

31.黒田家の甲冑

ここでは、福岡藩主・黒田家に伝来した甲冑を期間ごとに入れ替えて展示します。ガイド機画面も、ご覧ください。 黒田家の礎を築いた黒田如水(くろだじょすい)とその息子・長政の甲冑は、当世具足(とうせいぐそく)と呼ばれます。「当世」とは「現代」の意味で、つまり安土桃山時代に流行した「今風の甲冑」です。 兜はどれも奇抜なデザインで、赤いお椀をひっくり返したような合子形兜(ごうすなりかぶと)は、如水の愛用品。長政が好んだのは、大きな角が特徴の大水牛脇立兜(だいすいぎゅうわきだてかぶと)と一の谷形兜(いちのたになりかぶと)という変わり兜でした。二人の兜は黒田家の戦いのシンボルとなり、先祖の成功にあやかろうと歴代の藩主たちが似た兜を作りました。 一方、江戸時代中期以降の藩主の中には、室町時代の伝統的なつくりの甲冑を好む人もいました。兜には、黒田家の家紋、藤巴紋があしらわれています。いずれも如水や長政のものと比べると重く、着用する機会も限られていました。

32.黒田如水像・黒田長政像

安土・桃山時代、豊臣秀吉や徳川家康といった天下統一を狙う武将のもとで活躍したのが、黒田如水と長政親子です。ここでは、2人の肖像画をご覧ください。 向かって右側、ひじ掛けにもたれかかり、くつろいだ姿で表されているのが黒田如水です。亡くなって3年後、慶長12年、1607年に描かれました。如水は、秀吉の参謀として有名ですが、黒田家が筑前国、現在の福岡県に入った時にはすでに隠居していました。 その頃当主だったのは、向かって左側、甲冑を着て馬に乗った姿で描かれた息子・長政です。慶長5年、1600年の関ヶ原の戦いで活躍し、筑前国ほぼ一国を与えられました。翌年、長政は父親と共に新しい城と城下町の建設に取り掛かります。黒田家ゆかりの地で、現在も岡山県瀬戸内市長船町(おさふねちょう)に残る「福岡」という地名を城と城下町に付けました。

33.貝原益軒

19世紀、日本を訪れたドイツ人医師シーボルトに、「東洋のアリストテレス」と呼ばれた人物がいます。この掛軸に描かれた貝原益軒です。 益軒は、寛永7年、1630年に福岡藩の武士の家に生まれました。若い頃、京都で孔子の教えを学ぶ朱子学を修めた後、藩の儒学者となります。こちらは、執筆中の姿でしょうか。85歳の高齢で亡くなるまで、多くの著作を残しました。黒田家の歴史書「黒田家譜(くろだかふ)」や、郷土・福岡の地理をまとめた「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」がその代表です。 また、中国で発展した薬用の植物や動物などを研究する本草学(ほんぞうがく)を勉強し、日本で最初の本草学の本「大和本草(やまとほんぞう)」を編纂しました。当時の出版ブームにあわせて、儒学の教えをわかりやすく説いた教訓物や、西日本各地の名所旧跡の案内記なども知られます。最晩年の著作「養生訓(ようじょうくん)」は、自らの健康管理をもとに記した医学書で、現代まで広く一般に読み継がれています。

34.年行司の旗

これは、江戸時代の博多の商人・奥村家に伝えられた年行司(ねんぎょうじ)の旗です。 ふたつの城下町、福岡と博多には、商工業や運輸、交通の仕事に携わる人々の住む町が、福岡に約30、博多に約100ありました。この町の一つ一つには、年寄とよばれる町役人が置かれ、一定の自治が行われました。 年行司とは、年寄たちの上に置かれた役職です。数多くの町全体をとりまとめ、いわばその代表者として、町奉行による都市の行政と商人たちを結びつける役目を持っていました。 江戸時代の初め、年行司の多くは、福岡や博多の町人の中でも、古くから大商人の系譜を持つ人々でした。一方、江戸時代の中ごろ以降は、経済や流通の発展に乗じた新興の問屋などの大商人が就任。また織物などの製造業や加工業などの産業も発展し、様々な職人が活躍するようになりました。

35.本草正画譜

江戸時代後期、博多・呉服町に薬を調合・販売する薬種商を営み、本草学者(ほんぞうがくしゃ)としても活躍した内海蘭渓(うつみらんけい)という町人がいました。蘭渓は自宅の近くで、薬草をはじめ観賞用など数千種類にも及ぶ植物を栽培していました。植物の名前を正しく理解するため、育てた植物の写生図を作り、それを全国的に有名な本草学者・小野蘭山(おのらんざん)の元へ送って教えを請いました。 蘭渓が作った写生図は、後に本草学の研究に熱心だった福岡藩10代藩主・黒田斉清(なりきよ)の知るところとなりました。斉清は、自身の研究成果を活かし、描かれている植物の名前に修正を加えました。 藩主と町人、学者といった立場を越えた学問の交流を通してまとめられた写生図が、この「本草正画譜(ほんぞうせいがふ)」です。

36.【コーナー解説】(8.近代都市・福岡の時代)

明治4年、1871年、福岡藩は廃止され、福岡県が成立します。明治22年、1889年4月に市制が施行されると、福岡藩時代の二つの町、福岡と博多を合わせ、福岡市が誕生しました。 当時欧米で開催されていた万国博覧会に倣ったイベント「九州沖縄八県連合共進会」が2回開かれた他、昭和のはじめにも博覧会を開催。その度に市街地と交通網が整備され、福岡市は発展していきます。 大正時代からすすめられた周辺町村との合併により、面積・人口は増え続け、昭和に入ると、福岡市の人口は九州の都市の中でトップになりました。 しかし昭和20年、1945年6月の福岡大空襲で、市の中心部は大きな被害をうけます。第二次世界大戦後は、復興祭や国民体育大会を通じて、戦後復興のムードを高めました。

37.午砲(ドン)

毎日、昼になるとこの音が聞こえる。 こちらの午砲は、正午を知らせるために使われた大砲です。その音から、「ドン」という愛称で福岡市民に親しまれました。 明治19年、1886年7月、政府は、2年後の1月1日から、イギリスのグリニッジ天文台を基準として、東経135度を日本の標準時とすることを決めました。法律の施行にあわせ、福岡では午砲会社が作られ、明治21年、1888年7月から使用がはじまりましたが、ほどなくして福岡市の事業になりました。 当初、須崎の台場に設置されましたが、大きな音に苦情が出たため、西公園の山の上に移され、さらに港の波止場に移動しました。午砲は三代目まで代を重ね、昭和6年、1931年まで続けられました。

38.錦絵「九州沖縄連合第五回福岡県共進会場之図」

九州沖縄八県連合共進会は、沖縄県を含む九州の8県が出品する博覧会です。会場は各県の持ち回りで、明治20年、1887年に第5回共進会が福岡県で開催されました。こちらは、その会場の様子を表しています。開催地は福岡市・東中州。江戸時代の終わり、福岡藩の精錬所などの近代科学施設が置かれた場所でした。 画面中央右に見える白壁で2階建の西洋風建築は、共進会の本部です。その隣にあるレンガ造の建物は、福岡県内の名士の社交場として設けられた「福岡くらぶ」。小さく描き込まれた人々で、にぎわいを見せています。画面左下の白い建物は、九州大学医学部の母体となった、県立福岡医学校付属病院です。 共進会終了の後、その本部は福岡市会の議事堂として明治24年、1891年まで使用され、「福岡くらぶ」は博多米商会所になりました。

39.アロー号

ご覧のアロー号は、現存最古の動く国産自動車です。平成21年、2009年に日本機械学会の「機械遺産」に登録されました。 制作したのは、福岡工業学校出身の矢野倖一(やのこういち)。もとは飛行機に関心を持っていましたが、実業家・村上義太郎に車のエンジンの修理を依頼されたことをきっかけに自動車を作り始めます。 「アロー号」という名は、矢野の苗字から一字をとり、英語にしたものです。パーツは可能な限り手作りしましたが、一部外国製を使用しています。 大正4年、1915年、完成間もなくのテスト走行は、失敗。原因は気化器(キャブレーター)でした。矢野は、すぐにイギリス製のものを入手し、取り付けました。最終的にアロー号が完成したのは、翌年8月のこと。矢野24歳の時です。 完成から100年以上経った現在でも、アロー号のエンジンは正常に動きます。

40.雁ノ巣飛行場格納庫窓枠

この大きな丸い金属製の枠は、現在の福岡市東区奈多、かつての糟屋郡和白村にあった飛行場の格納庫に使われた窓枠です。 昭和11年、1936年、水上飛行機用設備を備えた飛行場として、福岡第一飛行場が開港しました。日本でも有数の国際飛行場で、地名をとって、雁ノ巣(がんのす)飛行場とも呼ばれます。 当時の飛行機は飛行距離が短かったので、東京・大阪から朝鮮半島や中国大陸に向かう際、雁ノ巣飛行場を経由して給油を行いました。第二次世界大戦中は軍用機も使用しましたが、戦後は一時アメリカ軍に接収されました。 飛行場の格納庫は使われないまま老朽化していき、平成14年、2002年に取り壊されました。その跡地には、飛行場建設の経緯が刻まれた小さな記念碑が残されています。

41.陶製鏡餅

これは、第二次世界大戦の時期に、陶器でつくられた鏡餅です。 本来であれば、神仏に供えるお正月飾りは、餅米でできた餅のはず。しかし、当時の日本では、軍事に関するものに、限られた物資・資源を優先的に配分していました。武器を生産するため、鉄や銅などの金属類は、一般家庭の鍋からお寺の鐘、公園の銅像まで、さまざまなものが回収された程です。 直接戦闘に参加しない銃後(じゅうご)と呼ばれる国民には、食料や衣類などが配給されましたが、貴重な食料を飾りに使わないですむようにと、この陶器の鏡餅は作られたのです。 戦争の時代には、物資や資源の節約のため、別の素材を使った「代用品」が作られました。食べ物の場合も同じで、こうした鏡餅の他、米の代わりに、イモや豆類を用いた代用食も登場しました。

42.第3回国民体育大会ポスター

戦争によって荒廃した国土、意気消沈した国民に、スポーツを通じて希望と意欲を回復させようと、昭和21年、1946年に国民体育大会が始まりました。福岡県と福岡市は、大会の誘致運動を行い、昭和23年、1948年、第3回大会が福岡県で開催されることになりました。こちらは、そのポスターです。 福岡城跡の中に、陸上競技場、サッカー場、ラグビー場などが建設され、これらの施設は総称して「福岡平和台総合運動場」と命名されました。 開会式、閉会式をはじめ、多くの競技がこの運動場で行われました。国民体育大会の際にサッカー場だった場所は、整理されて平和台球場となり、平成9年、1997年に閉鎖されるまで、市民に親しまれました。

43.【コーナー解説》(9.現代の福岡)

第二次世界大戦後、福岡市の人びとのくらしは大きく変化します。 高度経済成長期を迎えた昭和30年代以降、人口が増え、住宅が不足していました。日本住宅公団は、2DKの間取りに水洗トイレやステンレススチールの流し台を機能的に配置した住宅を建設。福岡市に九州初の公団住宅、曙団地が誕生しました。 現在も人々の暮らしを支える、天神・新天町商店街には、街頭テレビが置かれ、人びとが立ち止まって野球放送に見入っていました。平和台球場を本拠地とするプロ野球チーム、西鉄ライオンズが日本シリーズを3連覇したのもこの頃です。 平成元年、1989年には、市制施行100年を記念してアジア太平洋博覧会が開催されました。この時、百道海岸の埋め立てが行われ、現在この福岡市博物館がある、シーサイドももち地区が作られました。

44.西鉄ライオンズユニフォーム

福岡では戦前に西日本鉄道がオーナーになったプロ野球チーム、西鉄軍がありましたが、昭和18年、1943年に解散しました。 第二次世界大戦後の昭和25年、1950年、「西鉄クリッパース」と「西日本パイレーツ」の2球団が福岡で生まれ、翌年に両チームが合併して「西鉄ライオンズ」が誕生しました。 三原脩(みはらおさむ)監督のもと活躍したライオンズのスター選手と言えば、中西太(なかにしふとし)、豊田泰光(とよだやすみつ)。そして、「鉄腕投手」稲尾和久(いなおかずひさ)は、「神様、仏様、稲尾様」のキャッチフレーズで知られたチームの象徴です。昭和31年、1956年から3年連続で日本シリーズを制しました。このユニフォームは、その時期のものを復元しています。 この頃の福岡は、戦後の復興が一段落したとはいえ、まだまだ貧しさから抜け出せていませんでした。「西鉄ライオンズ」の活躍は、福岡の人々に元気を与えたことでしょう。

45.未来之大福岡之図

これは、西日本新聞社の前身の一つである福岡日日新聞社が、昭和13年、1938年に制作した衝立(ついたて)です。この年、福岡市は成立50周年を迎え、「市制発布五十周年式典」が開催されました。 衝立は、式典に出品された後に福岡市に寄贈されました。前面には豊臣秀吉が行った都市整備「太閤町割(たいこうまちわり)」の図が表されています。手掛けたのは、博多人形師・小島与一(こじまよいち)です。 背面に描かれたのは、当時の人々が夢見た福岡市の未来予想図。街には高層ビルが建ち並び、広い道路には自動車が行き交っています。ビルの形は様々ですが、多くは中庭が吹き抜けになっているのが特徴です。 街の上に広がる港には大型の船が碇泊し、飛行機の発着場が設けられています。博多港を中心に発展する明るい未来を願って作られました。

46.【コーナー解説】(10.福博人生)

日本全国、各地域には、その土地ならではの生活や文化があります。もちろん、ここ、福岡・博多にも。 このコーナーでは、福岡に住む人々が、生まれてから亡くなるまでの節目節目に行う、地域特有のしきたりや風習についてご紹介しましょう。 これは福岡に住む、ある家族の物語。主人公の13歳の少年と、そのお父さんとお母さん、お祖父さんとお祖母さん、そのまたお祖父さんとお祖母さんからなる4世代家族のお話です。 それぞれの世代は、「一人前」、「結婚と子育て」、「老い」、「死」という4つのテーマと深く結びついています。 そこには一体どんな暮らしがあるのか。福岡に生きる人々の一生を追ってまいりましょう。

47.かき棒と背くらべ

福岡・夏の代名詞と言えば、博多祇園山笠。博多を代表する夏祭りで、毎年7月1日から15日にかけて行われます。祭りの最大の見せ場は、何と言っても「追い山」です。ご覧の大きな人形飾り「山笠」を男たちが担ぎ、町を駆け巡ります。これを博多の人々の言葉で「山笠を舁(か)く」と言い、担ぐための棒を「舁き棒(かきぼう)」と呼びます。 祭りの賑やかな声が聴こえてきました。おや?どうしたのでしょう。少年が舁き棒に肩を付けようと顔をしかめ、爪先立ちをしています。山笠の世界では、舁き棒に肩が届いてはじめて山笠を舁くことができます。博多の子どもたちにとって舁き手の仲間入りは憧れであり、大人になることを表すもの。「舁き棒に肩が付く」とは、博多ならではの「一人前」を示す判断基準なのです。

48.嫁御ぶり

それは、ある正月のこと。娘が福岡へ嫁いで初めての年、実家の両親のもとへお婿さんから突然大きな荷物が届きました。一体何が入っているのでしょう。…箱を開けてびっくり!丸々と太った立派なブリです。 「結婚」は、時にこれまで生きてきた世間とは異なる「あたりまえ」を知るきっかけにもなります。例えば、こちらもそんな出来事の一場面。福岡ならではの習慣に、驚かされたのでしょう。 福岡では、結婚してはじめて迎える正月に、嫁方の実家に「嫁御(よめご)ぶり」と呼ばれるブリを贈る風習があります。「ブリ」には、「娘さんはよくやってくれていますよ」と、「良い嫁っぷり」であることへの感謝の意味が込められています。

49.博多松ばやし

博多の代表的な祭りのひとつ「博多どんたく」に参加する老夫婦が、町中で知人を見つけ、楽しそうに話しています。 二人は、明治26年、1893年から続く、日本一古いと言われている老人クラブ「博多高砂連(はかたたかさごれん)」のメンバーです。同世代の仲間と、博多に古くから伝わる歌や踊りを今に伝える「どんたく隊」として祭りに参加しています。着物や法被姿で三味線を弾きながら歩き、盛り上げるのです。 また「絵馬曳(えんまひ)き」と呼ばれる行事では、初老の40歳以上、または還暦である60歳を過ぎた人々が長寿を祝います。相撲の番付表のように最年長者から順に名前を刻んだ大きな絵馬を曳いて、賑やかに町を歩き、神社へと奉納します。 年を重ねた人々は、地域の伝統行事の担い手であり、それを次世代へつなげる役割を果たす重要な存在なのです。

50.追善山

福岡を代表する夏祭り「博多祇園山笠」のある日。その年の内に亡くなった故人の家の前には、祭壇が設けられ、遺影と法被が飾られています。そこへ山笠が普段よりも静かにやって来ました。心なしか悲しげに「博多祝い唄」を歌いながら、祭りに関わった功労者に対し、感謝と冥福を祈ります。「追善山(ついぜんやま)」です。この時、残された家族は、町の人々から信頼・尊敬されていた故人の姿をはじめて知ることになりました。 何かに夢中になることを、博多弁では「のぼせる」と言い、山笠に情熱を注ぐ人を「山のぼせ」と呼びます。博多に生まれ、山笠を愛する「山のぼせ」にとって、「追善山」は、なにものにも代えがたい名誉であり、また幸せの象徴なのです。

51.博多祇園山笠

こちらは、博多の夏を彩る祭り「博多祇園山笠」の舁き山笠です。高さ約4・5メートル、重さはなんと約1トン。これを男たちが担ぎ、町を駆け巡ります。舁き山笠の飾りは、工夫が凝らされた個性的なものばかり。博多人形師による大きな山笠人形、そのまわりには紙や竹でできた波や岩などが据えられます。ご覧の舁き山笠の飾りは、福岡藩の藩祖・黒田官兵衛です。 毎年7月15日に行われる博多祇園山笠のクライマックス「追い山」では、4時59分に太鼓が鳴り、七つの山笠が5分おきに順に櫛田神社境内に走り込みます。「櫛田入り」をしたそれぞれの山笠は、約5キロ先にある終点「廻り止め」まで、前の山笠を追うように一気に駆け抜けます。 かつては高さ10メートルを超える山笠が町を走っていました。しかし、明治時代に入り、電線の整備や路面電車が開通すると、背の高い山笠は町を走ることができなくなりました。以降の山笠は、動かさない豪華絢爛な「飾り山」と舁きまわる勇壮豪快な「舁き山」に分かれたのです。

52.博多祇園山笠巡業図屏風

ご覧の屏風は、江戸時代の博多祇園山笠を描いた、現存最古の山笠図です。場面は貞享(じょうきょう)3年、1686年頃。祭りの準備から当日までの、活気溢れる様子が伝わります。 画面右手に表されたのは、板を担ぎ、木槌をふるう人々の姿。素山(すやま)とよばれる山笠の骨組を組み立てています。 中央には、博多の大通りを練り歩く男たち。人形と旗で飾られた山笠は、現在の物よりもずいぶん背が高く、豪華な飾りです。場面が進んだ画面左手には、祇園様が祀られる櫛田神社に山笠が奉納される様子が描かれています。 よく「神輿(みこし)を担ぐ」と言いますが、博多では昔から「山笠を舁く」と表現します。山笠を舁くことが出来るのは、博多約100の町の内7つの流と呼ばれるグループに所属する町のみ。各流の中で、その年の当番となった町が山笠を作りました。費用は日頃から当番の町内で積み立てられ、個性溢れる華やかな飾りで、その豪華さを競ったのです。